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苦難が始まる

使徒4:1~7 栄光あるところには苦難が付いてくる。自分なりに苦難を乗り越えた人が頂上に立つ。イエスさまと関連がある苦難は祝福になる。ペンテコステの日に初代教会において聖霊が臨まれたが、4章から苦難が始まる。ここでイエスさまを拒否した人々について考えてみる。 4:1,2 福音を拒否する集団が初めて出てくる。教会でメッセージしたり、奉仕する人が反対した。教会を迫害する力は外にあるのではなく、内部にある。私たちの力が迫害する力にもなる。真理でないものは真理を拒む。 <なぜ迫害したか?>イエスさまが蘇ったら、自分たちが前に主張したことがウソになる。人々に「イエスを殺しなさい。」と言っていたから。本当は自分の過ちを認めること、悔い改めることは自分の罪を認めることであり、そうすれば解決は主がしてくださるのだが、そうしなかった。 自分たちの生活がかかっているので、人々がイエスさまにつくと生活ができなくなる。偽装の真理に人々は騙されてしまう。牧師は牧会するとき、「真理を伝えると、人々を傷つけてしまうのではないか」と思い、真実を伝えられなかったことを悔い改めたこともある。 サタンは人々を選んで使う。霊的に目を覚ましている聖徒でありたい。イエスキリストを拒否する力は教会の中にあることを知らなければならない。 <苦難の中、爆発的に教会は成長した。> 4:3,4 肉体は留置できたが、福音は止められなかった。迫害、苦難がかえって祝福になった。 リバイバルの速度は速い。偉大な神に偉大な信仰を持って仕えよう。 詩編100:3 心を開いて神様の力を受け取る器になろう。 <成長の理由> ①聖霊の風、恵み 愛隣教会にも、夫婦、子供にも風が吹くように。聖霊の風をもらう聖徒になろう。聖霊の力を制限してはいけない。心を開いて、歓迎して、聖霊様とともに歩む。 ②御言葉を聞く。 4:4 御言葉が魂の中に入る。30倍、60倍、100倍の祝福となる。御言葉には力があり、両刃の剣より鋭く、魂を刺し通す。試練の中で御言葉を聞いて従順しよう。 <4:5~7 人々はイエス様を否定するために集まった。> マタイ21:23 地の権威と神の権威があるが、天の権威のために仕える人になる。私たちには神様の子供としての権威がある。この世のものばかり求めてはいけない。神の国とその義とをま

初代教会の奇跡

使徒行伝3:1~10 初代教会に初めて起きた奇跡について書いてある個所である。 ①3:1 聖霊の体験、感動を祈りによって維持していた。神様からの恵みを祈りを通して守るのである。当時、一日3回宮に登って祈った。本当に恵みが訪れるとイエス様しか頭になくなる。いつもイエスさまに恋愛して祈る人に神様は奇跡を用意して下さる。約束を守る人を神様は使われる。 ②3:2,3 神の御手、導き、語って下さることを悟る人になる。心がかたくなになって悟れない人がたくさんいる。はじめ「足のなえた人」の関心はお金であった。人々は生きている間はいい生活をしようとするが、死んだ後のことは自分ではどうすることもできない。自分の中に救いはない。 ③3:4~6 ペテロはいつくしみを持った、魂に対する愛の目でその人を見た。初代教会には金銀はないが、イエスキリストの御名があった。中世以降の教会は金銀はあるが、イエスさまの御名がないと言われる。イエスキリストの御名の力を回復しなければならない。自分の中に救いはない。御名の中に救いがある。 ④3:7,8 御名を持って勝利する人になる。過去の過ちも関係ない。人の前で言える人になる。 3:9,10 人が恵みを頂いて変わると、他の人に影響を与える。ソドムとゴモラには10人の義人がいなくて滅んだが、恵みをいただいて人に影響を与える人になりたい。 

聖霊様が説教する

使徒行伝2:14~21 当時、120名の弟子が祈りながらイエスさまの約束を待っていた。そして5旬節の日に聖霊が来られた。 2:1~4 響き渡る音を聞いた。→炎が分かれた舌のように人の上にとどまるのを見た。→人々は聖霊充満になって他国の言葉で話した。→大騒ぎになった。人々は喜び、涙し、歓声をあげた。 聖霊充満はまず自分が分かり、他人が分かり、やがてエルサレム全体が大騒ぎになった。 バベルの塔の事件以来、各国の言葉は異なるものになっていたが、それを回復させる事件だった。 2:14 説教は共同体で語ること。神の言葉を代弁して宣言するのが説教である。人々は神の言葉を聞いていないから変わらないのだ。御言葉を聞かないと人は変われない。賛美も代表の祈りも説教もすべて聖霊によってなされなければならない。そしてしるしと奇跡が伴うようになる。 2:15 朝の9時から酔っているのではないとペテロが言う。 2:16,17 聖霊によってペテロが語るメッセージの内容は? ①聖霊の働きに対するメッセージ ヨエル書より、終わりの日に聖霊がやってきて働かれる。私たちは終わりの時代に住んでいる。全ての人に聖霊がやってくる。息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。2:18奴隷にもしもべにも聖霊を注がれ、彼らは預言を語る。 牧師はいくら頑張っても変わらない時期があり、将来の不安があり、やる気が起こらない時があったが、祈った時、聖霊により目が開かれ、全世界は神様のものであり、自分が宣言するとそれは実現するという確信をいただいた。爆発的な恵みをいただいた。 2:19,20 聖霊が教会の主人になり、私たちは従う。自我に死に聖霊が完全に支配して下さるように決める。 ②イエスキリストに対するメッセージ 2:22 聖霊によってイエスキリストの福音を語る。イエスキリストの生き方、救い、福音を語る。私たちも満たされるとイエスキリストを語るようになる。癒しも奇跡も起こると考え、人間の考えでイエスさまの働きを制限してはいけない。 2:23 イエスキリストの死を語る。私の罪のためにイエスさまが死んで下さったことがわかる。十字架が分かるのも聖霊様のみわざである。遠い昔の事件ではない。知識ではなく、人生で体験すること。 2:24 イエスさまは死から蘇った。他の宗教の創始者は皆蘇ること

アンテオケ教会

使徒行伝13:1~3 作物が育つには太陽と水が必要であるが、ここのところ雨が降らず大変だった。多量の水が必要であるが、聖書の中で聖霊は火と水にたとえられる。聖霊の力なしに悟るということは不可能である。イエスキリストを信じた時、聖霊様が皆の中に来られる。 使徒行伝1~12章ではエルサレム教会が中心的な役割を果たすが、13~28章ではアンテオケ教会がその役割を果たしている。今シリヤに内戦がおこっているが、そのシリヤに建てられたアンテオケ教会に福音が伝えられ、世界に伝わった。私たちには福音を伝える義務がある。異邦人の中に建てられたアンテオケ教会が大きな役割を果たしているのだが、その中にどういう事が見られただろうか? ①13:1 各種の壁を乗り越えた教会であった。 中心人物5人が出ている。バルナバは財産をたくさん持っていた人で、恵みを受けて多く捧げた。マナエンはヘロデ王の乳兄弟で高い地位にあった。ニゲロ(二グロ、シメオン)は黒人であった。ルキオも北アフリ出身の黒人である。そしてパウロであった。 人種、地位、経済格差などあらゆる壁を乗り越えた教会だった。全ての人を受け入れる包容力のある教会。私たちの教会も理解し変えていく教会になろう。 調和と協力は聖霊に満たされて出てくる。聖霊に満たされていない時は相手の弱点が見えるが、満たされると全てがよく見える。人を変えるのは愛しかない。 ②13:2 聖霊の働く教会であった。 聖霊の恵みを受け、主に仕えて礼拝した。断食して礼拝すると、聖霊様が働いて下さる。最善を尽くして主に仕える。聖霊様が主人で、聖霊様の語られることをわかり、従わなければならない。多数決ではなく、聖霊様の声に従うのが教会である。聖霊様が自由に働かれる環境作りは断食と祈りによる。アンテオケから世界宣教が始まるが、それはすべて聖霊様がされた。 牧師はうつ状態にあったかもしれないが、完全に回復して下さった。祈れば誰にも愛を施して、神様の時に祈りに答えてくださる。 ゼカリヤ4:6、1コリント12:3、ヨハネ16:13 問題を祈らないで答えを祈ろう。この世で一番大切なことはイエスさまを信じて救われ天国に行くこと。 ③13:1 分け与える愛のある教会 アンテオケ教会は分け与える教会だった。バルナバとパウロという一番大切な2人を宣教のために外に遣わし

キリスト者

使徒行伝11:19~26 11:6 この時初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになり、聖書に出てくる。場所はアンテオケであり、エルサレム教会につぎ2番目に建てられた。エルサレム教会が、バルナバをアンテオケに派遣し、1年間教えた。異邦人の中に建てられたが、愛にあふれて、素晴らしい御言葉の共同体、イエスさまを愛する人の集まる教会だった。素晴らしい人たちを見て、人々は「キリスト者」と呼んだ。 キリスト者(クリスチャン)とはどういう人か? ①11:19 ステパノのように、イエスキリストのゆえに迫害を喜んで受け入れる人である。当時クリスチャンはとらえられ牢に入れられた。聖徒たちは迫害の中でかえって感謝した。マタイ5:10~12 迫害の時喜んで下さい。神様は大きな報いを与えて下さる。 迫害されると聖徒が方々に散らされ、行った所で教会を建てた。患難がかえって益となった。 ローマ8:28、詩篇119:79 ②11:20~21 イエスキリストを伝える人である。真の食べ物はイエスキリストを伝えること。それに答えれば、素晴らしい力が臨まれる。福音を必要としている人がたくさんいる。 バルナバはアンテオケ教会で「イエスさまにとどまっていなさい。」と言った。 ③11:22~23 イエスさまの姿に似た者である。イエスさまの香りが漂う人になる。 バルナバは良心に満ち、立派な人であった。聖霊と信仰に満ちた人であった。人格的にも成長した人になる。 自分の外側の殻が壊されないと内側の聖霊様が出てこない。聖霊の声を聞く聖徒になる。「酒でなく聖霊で満たされなさい。」「聖霊の火を与えて下さい。」と祈る。キリストの霊によって導かれる人になる。ガラテヤ2:20、ローマ8:13,14 自分の力ではできないが聖霊によってできる。聖霊の恵みをいただく。今聖霊の働きが教会の中で大きくなっている。聖霊の働きに参加する人になる。

サマリヤの女(2)

ヨハネ4:27~38 悲しく苦しい人生を送っていた女性にイエスさまはやさしく近づく。女性はイエスさまの言われることに関心を持つが、私たちも霊的なものに関心を持つ聖徒にならなければならない。女性の目が開き、霊と真(聖霊と御言葉)の礼拝者となる。 ①女性の大きな変化 4:27 弟子は、イエスさまが異邦人の女性と話している事を不思議に思う。当時ラビは公の場で女性と話すことはなっかったからだ。 4:28、29 女性は水を汲みに行ったのに水がめを置いて町に行った。彼女の初めの目的が変わっている。人ははじめ問題や苦しみを持って教会に来るが、恵みを受けると人生の目的が変わって福音を伝える伝道者に変わる。私たちの目的も変わらなければならない。肉に属するのでなく霊的に変わってくる。 自分をいじめた人々の所へ行って福音を伝える女性。素晴らしい変化である。女性は「イエス・キリストはメシヤである。」というメッセージを確かに持っていた。 4:30 女性の話を聞いて、人々がイエスさまのところに来た。今までは無視していたのだが。 4:39~42 人は女性の言葉によらず、イエスさまの話を聞いて救い主であることがわかった。人を教会に導くとイエスさまが働いて下さる。 ②まことの食物 4:31~33 「私には本当の食物がある。」と言われるイエスさまと、この世を考えている弟子の話がかみ合わない。この世に属する人は肉に関する事ばかり話題にするが、霊的に目が開かれる体験をしなければならない。 ローマ8:6、ヨハネ6:63 4:34 まことの食物は天の父のみこころ(魂の救い)を行うこと。そのみわざを成し遂げること。イエスキリストを伝える。主のために働く伝道者になる。腐らない永遠の食べ物のために働く。 ③イエスさまのビジョン 4:35 普通の人よりも、遠く高い所を見ること。イエスさまのビジョンに参加する聖徒になる。麦刈では雨が降ると収穫できない。色づいたらすぐ収穫しなければならないという「時」がある。熱心に伝道してイエスキリストの恵みに加わる。 4:36~39 ひとりの魂のために最善を尽くす聖徒になる。人々が伝えて牧師が刈り入れる。収穫する緊急性がある。腐るものでなく永遠の命の為に働く人になる。

しかし、聖霊が臨まれるとき

使徒行伝1:1~8   今日はペンテコステの日である。私たちは聖霊なしに信仰生活を送ることはできない。 ①イエスさまの命令 1:4 「エルサレムを離れないで父の約束を待ちなさい。」 いかなることがあっても聖殿(エルサレム、教会)から離れてはいけない。多くの日本の魂は教会に来るが、3年したらいなくなると言われている。天の父の約束は5節「もう間もなく聖霊のバプテスマを受ける」ということ。私たちは信仰を持って水のバプテスマを受けるが神様の約束は「聖霊のバプテスマを受けなさい」ということ。旧約聖書にも書かれている。 2:16~18  「終わりの日にわたしの霊をすべての人に注ぐ。」 聖霊がやってくると私たちは力を受ける。 ②なぜ聖霊のバプテスマを受けなければならないか? 1:6 「今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 聖霊によって変わらないと、この世のものばかり追求し、霊的な目が開かない。 ニコデモ 「人は老年になっいて、どのようにして生まれることができるのですか。」 イエスさま「人は水と聖霊によって生まれなければ神の国に入ることができません。」 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 1:8 聖霊によって力を受けると書いてあるが、「力」はギリシャ語でダイナマイト。外側の力は、祈れば奇跡が起こることなど。内側の力は平安、喜び、試練を乗り越える力など。 聖霊の恵みを頂く聖徒でありたい。 1コリント2:4 聖霊の御力のあらわれで弟子たちは宣教した。聖霊を受け大胆に語った。 聖霊を受けるとイエスさまの証人となる。証人とは現場を目撃した人のみなれるもの。 しかし聖霊が臨まれると2000年前のイエスキリストを伝えることができるようになる。 また、証人は殉教者という意味もある。北朝鮮には20万人ものクリスチャンが収容所にいる。 ③どうすれば聖霊の恵みに入れるか? 聖霊を与えてくださいと求めること。牧師は病気がいやされるために大学生の時に教会に行った。 24時間ずっと聖霊をいただくことだけ考えていた。小さい罪までも徹底的に悔い改めた。 悔い改めと祈りでできる。 1:14 「祈りに専念していた。」 留学

勝利する信仰生活

ヨハネ14:12~17 14:8でピリポが「お父さんを見せて下さい」と言った。人は皆イエスさまを見たらもっと信仰を持つと思うけれどそんなことはない。牧師も祈っても見えなかった。これは霊の世界のことである。 14:9でイエスさまは「私を見た人は父を見た」と言われた。「私が父の中に、父が私の中におられる。」三位一体の神様である。人は聖霊に満たされて歩むと、自分の中に神がおられるのがわかる。 「信じるのが難しければ、私のわざを見て信じなさい。」 本当に神様はおられるから信じてみてください。そうすれば神の栄光が現れる。 勝利する信仰生活を送るためにはどうすればよいか? ①イエスさまを信じることが一番大切である。  「まことにまことにあなたがたに告げます。私を信じる者は私のわざを行い、またそれよりも大きなわざを行います。」 疑いを持たず、サタンと戦って勝利する。信じた者には無限の可能性とビジョンがある。厳しい時こそ大きなビジョンを持つ。ペテロ「どうすれば神のわざができますか。」イエスさま「神様を信じなさい。」 夢とビジョンを大きく持つ人になる。環境が悪くても信仰を持って勝利する人になる。 牧師の思い。「熱心に祈るのになぜリバイバルが起こらないのですか?」 ヨブ記より示された答えは、わたしの行く道は神様だけが知っている。それは必ず純金のように出てくる。 ②御名をもって熱心に祈る。(ヨハネ14:13,14より) マタイ7:7.8 求めるものは受ける。 ヨハネ16:23,24 父に求めることは何でも私の名によって父はお与えになります。 ヤコブ4:2 あなたのものにならないのは求めないからだ。 約束の御言葉を持って祈ると答えられる。 ある有名な牧師は牧師になる前、水道の配管工として働いていた。ある日工事に行った大金持ちの家で、奥さんが聞いた。「あなたに尋ねてもいいですか?あなたがそんなに素敵な喜びにあふれる顔をしている理由は何ですか?」「今朝、食事をするとき、妻が来て2人の息子に熱があると言います。部屋に行って『イエスの御名によって熱よ下がれ。』と祈ると、その時癒されました。イエスさまが生きておられ、祈りに答えて下さるから喜びがあふれるのです。」 牧師の娘は自分の部屋が欲しいと熱心に祈って、実際の経済状況を考えると人間的には無理

ナアマンの癒し

列王記2 5:1~4 アシム(シリア)のナアマン将軍が登場する。王から重んじられた素晴らしい将軍であった。私たちもイエスキリストの中で重んじられる存在になると計り知れないほど用いてくださる。 ナアマンはお金も権力もあるが、ライ病にかかっていた。ナアマンの家にはイスラエルから捕虜として連れてこられた娘がいて、言った。 「ご主人様がサマリヤに言ったら、預言者(エリシャ)が治してくれるでしょう。」ナアマンは信じてイスラエル(サマリヤ)に行った。ナアマンは紆余曲折の末に治って帰って行った。 <名もない若い娘について> 神様は歴史的場面で名もない一番弱い人を用いられた。 1コリント1:27、28 神様はこの世の弱い人、無に等しい人を選ばれた。 2コリント12:10 弱い時こそ私たちは強いからです。 偉大なる逆説である。神の前で弱さを表す聖徒、神の力を必要とする人になる。弱さは神様により頼む祝福になる。神の前で強い人はひとりもいない。 神はどういう人を使うか。 3節 神の国に対する確信を持っている人を使う。もしナアマン将軍が出かけて行って治らなかったら後で大変なことになるだろうが、娘は行くように助言した。普通の人は黙っているだろう。 ヘブル10:35 真理に対する確信を投げ捨ててはいけない。 確信を持つ聖徒にならなければならない。 日本の占領下で、ある韓国人牧師は「イエス、天国」といつも叫んだが、その声に日本兵の馬が驚いて日本兵が馬から落ちた。怒って部隊に連れて行き鞭打った。一回たたくごとに牧師は「イエス」と言った。なぜイエスとしか言わないのかと聞かれて、「私は頭からつま先までイエスに満たされている。私にさわるとイエスしか出てこない。」と言った。 なぜ感激がなくなっているのか? ①真理に対する悟りがない。信仰がさめている。②罪がある。③霊的に病気にかかっている。 その韓国人牧師はいつも聖歌411番「主我を愛す」を賛美していた。 救いの確信、御言葉、イエスさまに対する思いで一杯にする。サタンに誘惑されてはいけない。感激で毎日の信仰生活をする。この世のものは飲むと渇く。 <ナアマンについて> 4節 娘の話を聞いて信じる謙遜な人。堕落した人はイエスさまを説いてもなかなか信じない。またその娘の生活は正しく、正直で、聖かったので、

ペテロの回復

ヨハネ21:15-18 3回にわたってイエスさまが「私を愛するか?」と聞かれる。その後「私の羊を飼いなさい。」と言われた。 聖書から分かる通りペテロは大きな失敗をし、心に傷を受けた。しかしその失敗を乗り越えて大きく用いられる人になった。聖書的方法で乗り越えなければならない。 ①ペテロの失敗について ペテロは誰もが認めるイエスさまの一番弟子。素晴らしい信仰の言葉でイエスさまを驚かせたこともある。イエスさまが愛されたので、どこに行くにも連れて行かれた。水の上を歩く奇跡も体験した。「これは私の愛する子だ。あなた方はイエスの言うことを聞きなさい。」という神の言葉を聞いた。一番義理がたい人であるペテロが失敗した。 ヨハネ18:25~27で、イエスさまを否定し呪う大きな失敗をし、死ぬほど苦しく自分を責めた。罪責感で苦しかった。 ②全ての人には心の傷がある。 傷を忘れて生活する人がいる。人には10%の意識と90%の無意識がある。傷から苦い水がでてくる。癒されないと幸せになることができない。人は傷を隠しておきたい。傷がいやされないと神様に用いられることができない。砂の上に建てた家のように一瞬で壊されてしまう。誰でも傷がある。 牧師は劣等感の塊だった。それからいつも苦い水がでていた。いつも自分を責めていた。 親からの傷、離婚、暴力、夫婦喧嘩、教師、マスメデイア、教会、指導者たちからの傷。 傷があると悲しみ、自己憐憫、劣等感、競争心、怒り、憂鬱感、詭弁、敵対心、罪責感、固執、 コントロール、過ちを認めない、人と比較する、などいろいろ出てくる。傷がありすぎると問題である。 傷に悪霊が働くと自殺したり、殺人したり、人のせいにしたり、快楽におぼれたりする。 スポーツやギャンブルに溺れるのも傷を隠すためかもしれない。牧師の中にもいる。 ③ペテロはどうやって回復したか。 ヨハネ21:6~7 ペテロははじめ魚が捕れないときイエスさまに出会ったが、同じ状況をイエスさまが演出される。 思い出したくないことをあえて思い出さなければならない。私たちは潜在意識に隠しているが、主の前に持ってくる聖徒にならなければならない。人は癒せないが神様が癒してくださる。苦しくても告白する。思い出したくないこともイエスさまに訴える。イエスさまが触れて下さる時癒される。まこ

人生の正解

ヨハネ3:16 人生に一番大切なものは何か? 哲学者サルトルは言っている。 人は3つの疑問を持つ。①出生に対する疑問②なぜ人生はこんなに苦しいか?③死んだ後はどういう世界が待っているか? 聖書はその疑問に答えを与える。 牧師は正解を見つけてから人生が変わり人生観が変わった。最良のニュースは何か?正解は何か? ヨハネ3:16 神はこの世を愛された。私を愛された。イエスさまを送って下さった。この聖句に「滅び」という言葉があるが、人生は滅びに向かって進んでいる。しかし、聖書のメッセージは滅びに行かず、永遠の命を持ちなさいということである。 〈人々は勘違いしていることがある。〉 ・この世の生活が全てであると錯覚している。1989年に日本に来てびっくりしたが、日本人は一生懸命仕事をする。この世が全てであると思って働いている。 日本人で長寿のためギネスブックに載った人が「どのくらいまで生きたいですか?」と聞かれて「永遠に生きたい」と答えた。ある日本人牧師は自分に「牧師先生、私たちは120歳まで生きましょう。」と言った。 「人はこの世の栄華を求めるが、草は枯れ花はしぼむ。」と聖書は言っている。 ・自分には罪が無いと思っている。 他の人と比べると自分は良い人だ。しかし自分中心が罪であり、神様を認めないことが罪である。 なぜ罪人といえるか?「死ぬ」ことからわかる。罪の報酬は死である。 しかし人生は死んだら終わりではない。 人生には滅びの道と永遠の道がある。「滅び」というのは罪の代価を支払うことである。 私たちが滅びることのないように神様が与えて下さったのがイエスさまである。 昔はある人が罪を犯すと羊が連れてこられた。羊を殺して燃やすと罪は許された。 2000年前に罪のないイエスさまが私たちを救うために十字架にかかられた。 10年前に韓国で火災が起こった。10代の息子と母親が喧嘩して、息子が家に火をつけた。母親が逃げてきて、息子が中にいると言い、若い消防士6人が助けに行き、天井が落ちて死んだ。火の中にいると思われていた息子は外にいて助かった。 ある人が「本当に死ぬべき人はこの子なのに若い消防士が6人も身代りになって死んだ。」とテレビを見ながら言った。 私が地獄に行くべきなのにイエスさまが代わって下さった。イエスさまだけ

兄弟と呼ぶ

ヘブル2:10~11 聖とする方と聖とされる者は一つの元から生まれている。イエスさまと私たちは兄弟である。同じ父から生まれたと書いてある。だから私たちはイエスさまの満ちみちた丈にまで成長する。イエスさまの平安と喜びのある生活ができる。 ヨハネ14:12より、イエスさまが行った行いを私たちは行うことができ、さらに大きな行いをすることができる。しかしなぜ今イエスさまの栄光が現れないか? ①罪責感から自由になっていないから苦しんでいる。神の前に堂々と立つことができない。心の中で自分は祝福されないと思っている。何か悪いことが起こったら自分のせいだと思う。罪責感から自由にならなければならない。 (エペソ1:7)この方によって血による購い、罪の許しを受けている。 (1ペテロ2:24)イエスさまは私たちの罪を負われて代わりに死んで下さるため十字架にかかられた。 罪責感が残っていたら神の働きをすることができない。ペテロ(イエスさまを3度否んだ)、ダビデ(殺人、姦淫)、パウロ(ステパノ殺しに賛成)など皆、サタンのもたらす罪の意識から自由になった。 ②神の義とされたという確信を持つ。 (2コリント5:17)キリストのうちにあるならその人は新しく作られたものである。 (2コリント5:21)イエスさまが死なれた理由は私たちを神の義とするため。神の義とされるということは、一回も罪を犯したことが無い、これからも犯罪を犯さない存在となったこと。 (1ヨハネ3:9)神から生まれたものは罪を犯さない。 (1コリント1:30)キリストは義ときよめと購いになられた。 私たちがイエスキリストを主とすると出生が神とされる。 (ローマ3:23、24)(ローマ3:26)(ローマ3:28)(ローマ8:1,2)イエスを信じる者を義と認める。 父に堂々たる心で求めることができる。 ③何が問題か? 本質的に罪を犯さない存在になっているはずなのになぜ罪を犯すか?「二度と元に戻らない」と言ってイエスさまのもとに行くが肉には罪の習慣が刻まれているから、聖霊に満たされないとそれが現れてしまう。肉体を信じてはいけない。心は神に従おうとするが肉体は罪に従っていこうとする。 (ローマ7:23~25)でパウロは告白している。 神の声が聞こえた。「目と手に罪の習慣が刻まれているので肉の習

良い種と御言葉

マタイ13:24~30 ①地上の教会には良い種と毒麦がある。 24~27節、37~39節で解説されているが、良い種をまく者は人の子で、畑は世界。教会の中にサタンが自分の子を植えておいたので、その子も共存していると言える。12弟子の中にイスカリヨテ・ユダがいたことからもわかるように教会は、非の打ち所のない、完璧なところではない。完全でないから謙遜になることしかできない。それは歴史を通して知ることができる。 ②いつ毒麦をまいたか? 25節からわかるが、人が眠っている時である。つまり霊的に眠っていた時である。賛美の中で聖霊が働かないときである。いつも目をさましている聖徒でなければならない。 (1ペテロ5:8、詩篇16:8、詩篇105:4より)主とその御力を尋ね求めよ。 牧師は聖霊様に満たされると賛美が流れ、眠っている時も賛美が流れる日々を体験している。 41節より、悪魔サタンは人をつまずかせたり、不法を行うので追い出さなければならない。 (マタイ18:6)私たちを通してつまずく人がないようにする。 (1コリント8:13)イエスさまを信じる人の模範となり、聖霊様の語られることを聞く。罪から遠ざからなければならない。偶像に捧げた肉を食べて人をつまずかせるなら自分は肉を一生食べないとパウロは言った。 毒麦は良い種にはならない。一旦毒麦になるとサタンの子であるから永遠に毒麦である。本当の悔い改めをしないでまねをしていてはいけない。イエスキリストの中で罪のない聖い生活をする。 最悪は毒麦が牧師になった場合だ。そうなると牧師の下の人々は皆毒麦になってしまう。 同じように育てても麦の中に黒穂があり中身がないときがあり、実がない。 ③どうすればよいのか? 28、29節より、教会の中の毒麦も最後の裁きの日までそのままおいておかれるので、土壌を変えて毒麦が来ても育たない土壌にしなければならない。 イエスキリストの真の弟子になると毒麦は活動することができない。イエスさまの満ちみちた身丈にまで成長しなければならない。光が来ると暗闇は消え去る。 (マタイ28:18~20)イエスさま最後の命令は、弟子を作りなさいということ。御言葉を守り行う、イエスさまに命を捧げる人、御言葉が人格に溶け込んでいる人。 「神様が教会に置いた目的は何?」と聞かれたC.

天の父の夢

エペソ4:11~15 私たちひとりひとりに対する神の夢、計画がある。ヨハネ15:16にあるように神は私たちが実を結ぶために呼んでくださった。 ①私たちに対する神の夢は何か? 11、12節より、聖徒たちを整えて奉仕させ、キリストの体を建て上げることである。また、13節にある通り、キリストの満ち満ちた身丈にまで信仰が成長することが神様の私たちに対する夢である。完全でありなさいと主は言われている。(マタイ5:48) 「日本に福音を伝えるのは難しいです。韓国に帰りたいです。」と言ったとき、神様の答えは「12弟子を見てみなさい。一番のエリートを弟子にしたのか?そうではない。私がやると、最高の弟子を作ることができる。」だった。 私たちの目標はイエスキリストに達することでなければならない。ローマ8:29において、神様はもうすでに私たちがイエスさまのようになることを思い描いておられる。弟子は生まれるのではなく作られる。 愛隣教会の聖徒皆が小さなイエスさまになることを目標にすること。神様がなしてくださる。 ②どうすればイエスさまの身丈にまで成長するか? 2節より、愛の人になる。許し合い愛し合う教会となる。(1コリント13:4~7)愛の土台の上に教会が建てられ信仰が成長しなければならない。仕える人になる。李明博前大統領は、教会の駐車場で交通整理をしながら愛を学んだ。小さいことに忠実でなければならない。愛を持って、愛によってイエスキリストにまで達する。訓練しなければならない。 聖霊に導かれる。 クリスチャンは正しいことをしなければならない。しかし自分の力ではできないので聖霊様にしていただく。(ガラテヤ5:16)御霊によって歩みなさい。パウロのように「私がイエスさまにならうようにあなたもならう人になりなさい」と言えるようになりたい。葛藤して勝つことだ。 聖フランシスコの所に2人の人が来た。「弟子になりたいのです。」 「白菜を葉を下にして、根を上にして植えなさい。」 1人はそうした。もう1人は自分の考えで普通に植えた。どちらが弟子になったか? 合理的で知恵ある人は弟子になれなかった。従順が大切である。 (エペソ4:13)(ピリピ3:8)イエスさまを知ることに最善を尽くす。(ピリピ2:8,9)イエスキリストの御名に力がある。志を持ってイエスさ

信仰の世界

                           ヘブル書11:1~6より 神様を信じることが神の業を行うことである。特に祈っても答えが出ない時など、環境が難しい時、信仰を守ることは簡単ではないのであるが。 ①信仰とは何か?   信仰とは望んでいる事柄を、実際に形があると信じることである。目に見えないものを確信すること、受け取ったと信じることである。 ②信仰の根拠は何か?   根拠は神様の約束の御言葉である。だから、現実は厳しくても、聖書の約束を信じる。福音の力は御言葉の力によって勝利することである。 百人隊長はただ御言葉を信じた。 ハドソンテーラーはイザヤ書53章5節「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちのとがのために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」という御言葉に感動して、中国1億人のクリスチャンのための初めの伝道者になった。 ジョージミューラーは詩編68篇5節「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」という御言葉を与えられて3000人の孤児を養った。 シカゴ火災でムーデイー牧師の教会は焼けたが、もっと大きな教会を与えて下さるという神の約束の言葉を信じるとその通りになった。 ヨシュアが語られたように、神の御言葉を昼も夜も口ずさむ。 イエス様は御言葉で悪魔を追い出された。 ③信仰がなくては神に喜ばれることはできません。   信仰がないと道ができない。御言葉が信仰と結ばれないと役にたたない。ルターの宗教改革のもとはただ信仰だった。神様を求めると必ず報いて下さると信じ、肯定的な考えを持たなければならない。430年間奴隷であったイスラエルの民は、46年の放浪で奴隷の考えから、「できる」という信仰の民に変えられたのである。

サルデス教会

黙示録3:3~6 今の時代は聖書に出てくるサルデスの教会に似ているかもしれない。イエス様はこの教会をほめていない。今この教会にイエスさまが来られたらどうだろうか? ①何が問題だったか?(1節) 建物は立派だった。しかし「あなたたちは生きているように見えるが死んだものだ。」 なぜ死んだか?世俗化されたからだ。この世の流れに巻き込まれている。生きた魚は流れに逆らって登ろうとするが死んだ魚は流されるままである。教会がこの世の流れに巻き込まれるとサルデス教会のように死んでしまう。教会は光と塩の役目を果たさなければならない。神様とこの世の両方を求めることはできない。    ヤコブ2:26、2:22 「信仰は行いによってまっとうされ、」 ルターやカルビンは宗教革命を行った。私たちは変わらなければならない。恐れないで真理の御言葉をのべ伝えなければならない。 ②死んだものを生かすためにどうすればよいか。(3節~5節)   徹底的な悔い改め、御言葉に照らして悔い改め、十字架の愛を信じて悔い改めること。 1ヨハネ1:9~10にあるように罪を言い表すなら神は赦してくださる。 生きる道は究極的には神を愛し人を愛することである。命をかけて信仰生活をする。 神様が隠しておいた白い衣を着た人になる。福音に命をかける人。信仰の貞節を守る人。魂を救いに導く人。 ③聖霊様の働き 自分の力ではできないが聖霊様によって変わることができる。聖霊様の恵みをいただかなければならない。 ゼカリヤ4:6 「権力によらず、能力によらず、神の霊によって。」

イエスさまの信仰と祈り

ヨハネ11:38~44   ①信仰のある人になる     イエス様は墓の前で憤りを覚えられた。イエス様が怒られる場面は他にあまりない。宮をきよめられるときに怒られたが、どんなことがあっても譲れないところがイエス様にはある。なぜこれほど怒られたか?それは32、37節からわかるが、ラザロが蘇ると言われたのに人々が信じなかったからだ。信仰がない時イエス様は怒られる。決定的な瞬間に信仰をあきらめることが多いが信仰がない人にならないである人にならなければならない。死んで4日も経つから生き返るのは不可能だと人間の知識や環境で判断したりせずどんなに不可能なことに思えても主に信頼する者になる。信仰によって勝利する者になろう。 ヘブル11:6、ヨハネ11:39、40  ②どういう信仰か?   41節:父よわたしの願いをきいて下さったことを感謝します。  イエス様は祈ったことが100%かなえられることを信じておられた。私たちは疑いを持って祈ってはいけない。    42節:いつもわたしの願いをきいて下さることを知っておりました。  こういう神様との関係の人にならなければならない。マルコ11:24、ヘブル11:1 祈ればすぐ受け取ったと信じる。    なぜ答えて下さるか?イエス様が十字架の上ですべて成し遂げてくださったから。私達は神の子供だから。エペソ1:17~19にあるように神が私たちのために用意して下さったものがいかに素晴らしいものであるかを見ることができるように。  ③イエス様はどの様に信仰を表現されるか?   ヨハネ11:43,44 マルコ11:23 信じるところを口で宣言する人になる。癒された、勝利した、問題が解決した、、、、ベニ―ヒンは口を通して宣言すると神様が働いて下さると言った。霊の世界ではもう成っている。従順するとき油注ぎが来る。