ナアマンの癒し

列王記2 5:1~4

アシム(シリア)のナアマン将軍が登場する。王から重んじられた素晴らしい将軍であった。私たちもイエスキリストの中で重んじられる存在になると計り知れないほど用いてくださる。

ナアマンはお金も権力もあるが、ライ病にかかっていた。ナアマンの家にはイスラエルから捕虜として連れてこられた娘がいて、言った。
「ご主人様がサマリヤに言ったら、預言者(エリシャ)が治してくれるでしょう。」ナアマンは信じてイスラエル(サマリヤ)に行った。ナアマンは紆余曲折の末に治って帰って行った。


<名もない若い娘について>
神様は歴史的場面で名もない一番弱い人を用いられた。
1コリント1:27、28 神様はこの世の弱い人、無に等しい人を選ばれた。
2コリント12:10 弱い時こそ私たちは強いからです。
偉大なる逆説である。神の前で弱さを表す聖徒、神の力を必要とする人になる。弱さは神様により頼む祝福になる。神の前で強い人はひとりもいない。

神はどういう人を使うか。
3節 神の国に対する確信を持っている人を使う。もしナアマン将軍が出かけて行って治らなかったら後で大変なことになるだろうが、娘は行くように助言した。普通の人は黙っているだろう。
ヘブル10:35 真理に対する確信を投げ捨ててはいけない。
確信を持つ聖徒にならなければならない。

日本の占領下で、ある韓国人牧師は「イエス、天国」といつも叫んだが、その声に日本兵の馬が驚いて日本兵が馬から落ちた。怒って部隊に連れて行き鞭打った。一回たたくごとに牧師は「イエス」と言った。なぜイエスとしか言わないのかと聞かれて、「私は頭からつま先までイエスに満たされている。私にさわるとイエスしか出てこない。」と言った。

なぜ感激がなくなっているのか?
①真理に対する悟りがない。信仰がさめている。②罪がある。③霊的に病気にかかっている。

その韓国人牧師はいつも聖歌411番「主我を愛す」を賛美していた。

救いの確信、御言葉、イエスさまに対する思いで一杯にする。サタンに誘惑されてはいけない。感激で毎日の信仰生活をする。この世のものは飲むと渇く。

<ナアマンについて>
4節 娘の話を聞いて信じる謙遜な人。堕落した人はイエスさまを説いてもなかなか信じない。またその娘の生活は正しく、正直で、聖かったので、感動して信じたのだろう。

マタイ5:16 人々の前で光を輝かせる人になる。
清教徒たちは「私たちの生活場所は教会のように聖い所だ」と言った。礼拝は全能の神と出会う時間である。
心を尽くして礼拝すると上からの力、感動が与えられる。

9~12節 ナアマンが行ってもエリシャは家から出てこない。使いが出てきて「ヨルダン川に行って7回体を洗いなさい。」と言った。
13,14節 頭では納得できないが戻っていき7度身を浸した。自分の考えを捨てるのが従順。自分の考えは、頭に手を置いて祈ってもらうということだろうが、自分の考えを捨てて御言葉に従うのが従順。真理の御言葉に従順すれば必ず奇跡が起こる。

なぜ喜びがないか?従順していないから。神の前で従順していないところが葛藤するところ。ペテロ「でもお言葉通りに網を下ろしてみます。」神の国とその義をまず求めて仕事をすると主がして下さる。自分の考えを捨てて従順するのが弟子である。
①自分が主人ではない(神が主人)
②自分のものは何一つない(すべて神のもの)
③自分の思うままに生活できない(神の命令に従って生活する)

時には崖っぷちに立たされて従順を求められる。

なぜ神様が人間の姿をとっていらしたか?
アリの行列が道を渡っている。トラックが来て危険が迫る。アリに「逃げなさい」と伝えたいがどうすればいいか?自分がアリになれば危険を教えることができる。そうされたのがイエスさまだ。

祈って感激を取り戻す聖徒になる。魂が良くなると神様が全て祝福してくださる。従順は知識ではなく、信仰生活の長さでもない。ナアマンは神を信じて10日にしかならなかった。

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