兄弟と呼ぶ
ヘブル2:10~11 聖とする方と聖とされる者は一つの元から生まれている。イエスさまと私たちは兄弟である。同じ父から生まれたと書いてある。だから私たちはイエスさまの満ちみちた丈にまで成長する。イエスさまの平安と喜びのある生活ができる。 ヨハネ14:12より、イエスさまが行った行いを私たちは行うことができ、さらに大きな行いをすることができる。しかしなぜ今イエスさまの栄光が現れないか? ①罪責感から自由になっていないから苦しんでいる。神の前に堂々と立つことができない。心の中で自分は祝福されないと思っている。何か悪いことが起こったら自分のせいだと思う。罪責感から自由にならなければならない。 (エペソ1:7)この方によって血による購い、罪の許しを受けている。 (1ペテロ2:24)イエスさまは私たちの罪を負われて代わりに死んで下さるため十字架にかかられた。 罪責感が残っていたら神の働きをすることができない。ペテロ(イエスさまを3度否んだ)、ダビデ(殺人、姦淫)、パウロ(ステパノ殺しに賛成)など皆、サタンのもたらす罪の意識から自由になった。 ②神の義とされたという確信を持つ。 (2コリント5:17)キリストのうちにあるならその人は新しく作られたものである。 (2コリント5:21)イエスさまが死なれた理由は私たちを神の義とするため。神の義とされるということは、一回も罪を犯したことが無い、これからも犯罪を犯さない存在となったこと。 (1ヨハネ3:9)神から生まれたものは罪を犯さない。 (1コリント1:30)キリストは義ときよめと購いになられた。 私たちがイエスキリストを主とすると出生が神とされる。 (ローマ3:23、24)(ローマ3:26)(ローマ3:28)(ローマ8:1,2)イエスを信じる者を義と認める。 父に堂々たる心で求めることができる。 ③何が問題か? 本質的に罪を犯さない存在になっているはずなのになぜ罪を犯すか?「二度と元に戻らない」と言ってイエスさまのもとに行くが肉には罪の習慣が刻まれているから、聖霊に満たされないとそれが現れてしまう。肉体を信じてはいけない。心は神に従おうとするが肉体は罪に従っていこうとする。 (ローマ7:23~25)でパウロは告白している。 神の声が聞こえた。「目と手に罪の習慣が刻まれているので肉の習